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“料理教室の先生”という憧れの先に見えるもの(2019/03/20)

多くの人が憧れる“料理教室の先生”

しかも、大手企業運営する教室の一講師ではなく、自分の料理教室をもって、それで生計を立てたいという夢。


資格も知識もないところから、スキルアップのために養成講座などを受け、その時点で同期というのは仲間であり、ライバルでもある。

ライバルが自分よりも一歩先をゆけば悶々とするし、自分の出来なさに落ち込んだり、周りと比べて自分のアピールポイントって何なのだろう?と自問自答の日々。

養成講座を卒業すれば、それぞれの活動がスタートする。


住んでいる地域が近ければ、嫌でも相手の活動が気になるし、遠くても一歩先ゆく人を見るのはしんどい。

みんな同じだと思っていたのに、いつのまにか自分の世界観をどんどん作り出す人もいるし、様々な理由によってほとんど活動できない人もいる。

最初の1年くらい、とても頑張ってたかと思えば、いつのまにかブログの更新もなくなり、どうしちゃったんだろう?という人もいる。

逆に細々と淡々と、スローペースで続けている人もいる。

ある点だけを見れば、前者の方が圧倒的に輝いているし「凄い」と言われるかもしれない。

けれど、人生は「点」ではなく「線」だ。

誰だって、ちょっとだけなら頑張ることは出来る。

それを長年続けていく人は、ある意味そういう運命の人だと感じる。

何故か。

あれだけ夢見た“料理教室の先生”になったのに、様々な理由で続けない(続けられない)人が大勢いるから。

・結婚/妊娠/出産で状況が変わった

・やりたくても会場がない

・仕事が忙しすぎて出来ない

・他にやりたいことが出来た

・家族の介護が必要になった

・やってみたら自分には違う気がした

・好きなことを仕事にするのは向かなかった

・やっても殆ど利益が出ないので、続けてゆくほどしんどくなる

・人前に立って話すのがそもそも無理だった

など、とてもここには書ききれない。

そして、同期として学び、卒業後もライバルとして動向が気になった相手とも、いつのまにか方向性が全く異なってゆく。

例えば、発酵の教室をみんながやりたいと思っていたとしても、最終的には誰もライバルになんてならない。

“料理教室の先生”と言っても、そのスタイルや提供するレッスン、そして何と言っても自分そのものが他人とは全くの別人なのだから。


もはやこの時代においての料理教室は、料理がうまいだけでは成功出来なくなってしまった。

ブログやSNSの文章、写真、レッスン会場の雰囲気、教室の世界観、お客様像、そして何よりも自分の人間力と、どれだけ自分という人間を理解し、表現出来ているか。

それら全てに「自分流」が発生する。

自分流は、どんなに他人が真似しようとも真似することは出来ない。

真似は真似でしかない。


ちなみに、先ほどのポイントが全て美しく正しく整ったものでないといけないかというと、全くもってそんな意味ではないので勘違いしないでほしい。

何故って「美しさ」や「正しさ」の定義は人により異なるから。

一般論としての「美しさ」や「正しさ」の中では、誰かとの戦いや比較になってしまう。

比較する相手は、他人じゃない。昨日の自分だ。

だとすれば、自分にとっての「美しさ」や「正しさ」とは何か?を考える。


それは「私らしさ」と「心地よさ」だ。

ブログやSNSの文章、写真、レッスン会場の雰囲気、教室の世界観、お客様像、そして何よりも自分の人間力と、どれだけ自分という人間を理解し、表現出来ているか。

これらにおいて「私らしさ」と「心地よさ」を基準にする。


このブログのように毎回文章が長く、小説のような文章が私にとっては「私らしさ」と「心地よさ」である。

けれど、ツイッターやインスタグラムのような、ポロっと一言添えるだけの方が「私らしさ」と「心地よさ」だと思う人もいる。

カメラが好きで、美しい写真をバンバン並べていくのが「私らしさ」と「心地よさ」だと思う人もいる。

けれど、小説やコラムのように文章だけをツラツラ書き綴るほうが「私らしさ」と「心地よさ」だと思う人もいるのだ。

短い文章じゃ、何も伝えられないと感じるならば、それは間違い。


ある日、下駄箱にラブレターが置いてあった。開いてみると

「好きです」

とだけ書いてある。

心がざわつき、揺さぶられる。ドキドキがきっと止まらない。


またある日、下駄箱にラブレターが置いてあった。開いてみると

「私があなたを好きな理由を100枚に渡って書きました。最後まで必ず読んでください」

と書いてあった。

ゾッとする。。

呪いがかかりそうだ。



写真だって同じことが言える。

美しい写真は世の中に山ほどある。

美しいモノ、美しい景色、美しい料理は山ほどある。

けれど、絶対に私には見れない景色がある。

それは、自分ではない人の目で見たこの世界。

誰かの撮った写真でだけ、その世界を見ることが出来る。

だから、例え一般論として美しい写真ではなくても「私らしさ」の溢れる写真を日々ブログに投稿していれば、それがいずれあなたの世界観になる。

あなただけの世界観が出来上がった頃には、きっと写真の腕前も上達しているに違いない。

現に私はそうだった。


料理教室だけでなく、どんなことにおいても、続けない(続けられない)ということは、幸せになる道筋が他の方向へ伸びているということなのかもしれない。

心の羅針盤も、自分にしかわからないのだから。

人生とは、自分にとっての「美しさ」や「正しさ」を追求する旅のような気がする。

それはつまり、「私らしさ」と「心地よさ」を追求するということ。

料理教室においても、仕事をしながら週末にだけ自分の好きなことに没頭するのも「私らしさ」と「心地よさ」

やるからには絶対にガンガン稼ぎまくる!と決めて頑張るのも「私らしさ」と「心地よさ」

自分がレッスンをすることだけでなく、講師を育てて女性の活躍するフィールドを作り出し、みんなで創造するのが私にとっての「私らしさ」と「心地よさ」なのだ。


旅は、出発してみないと何が起こるか、どんな気持ちになるか、どんな閃きがあるか予想もつかない。

昨日のブログがよい事例だ)

人生の旅も全く同じで、やってみないとわからないのだ。

あれだけ憧れた“料理教室の先生”も、やってみたから次の道筋が見えてくる。


全ての出来事に無駄はない。

全てがいずれ活かされる。

人生は「点」ではなく「線」だから。

これから先も、この人生を「私らしさ」と「心地よさ」で彩りたい。

そして、そんな風に生きたいと願う女性たちを心から応援したい。




<あとがき>

今日みたいに、天からハラハラと言葉が降ってくるのを、ただただ書き留める文章も好き。

ワクワクボルテージが高い時の文章とは、また違った印象を感じるはず。

これは使命みたいな気がする。

降ってきた言葉を誰かのために綴らなきゃって、思う。

自分で綴ったのに、自分じゃない人が書いたような気がする。

そんな私は、潔く「好きです」だけのラブレターはきっと書けない。

きっと100枚綴っちゃうね。笑


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